『歴史には「出来事」のほかに「問い」がある』

牧師  林  宣雄

 「戦争の日本近現代史」(加藤陽子著)という本を読んでいます。明治維新から太平洋戦争までの時期を対象として、為政者や国民が世界情勢と日本の関係をどのようにとらえ、どのような筋道で戦争を受けとめていったのかを第一講から第九講まで記述している。

 全部の講義を紹介は無理ですので第一講の「戦争」を学ぶ意味は何か、という中から私が関心をもったり、同感したことだけにしぼって紹介いたしましょう。歴史には「出来事=事件」のほかに「問題=問い」があるはずなのに、多くの歴史書は、そのことに気づかせてくれる記述をしていないのは何故か、ということです。ミシェル・フーコは18世紀と19世紀の医学書を丹念に比較して「知のあるひとつの型から知の別の型へ移行が行われるのにどうしても必要な変換作用とは、どのようなものであったか」と。フーコは医学の世界で臨床医学研究が盛んになったこと。屍体解剖のタブーが薄らいで臨床教育と病理解剖学が経験的に結びつけられるようになったこと。これらの要因によって、劇的な変化が起きたと説明している。加藤陽子氏は時代の推移とともに人口の認識や知の型が、がらりと変わるのは何故か、人口の複雑な行動を生み出すもとになった深部の力は何なのか、と問題提起をする。何故、日本は負ける戦争をしたのかという問いよりも、何故、戦争になったのか、と問うことが大切なのだ。

 日本国民の多くが「だから戦争にうったえねばならないのだ」「だから戦争をしてよいのだ」という感覚をもったとき為政者が戦争の手段を選ぶのだ。日本の近現代史には戦争を正当化し合理化してきた。日本人の認識を根本的に変化させるためには「戦争」行為のおろかさを一人一人の心の深いところまで根づかせていく以外にない。


                       〔2005年8月14日〕