「今は恵みの時」

 

                木津キリスト教会員  

  中島 可子姉妹

 

私は1949年(昭和24年)3月ふとしたことからイエス様と出会いました。戦中戦後の混乱から大人たちが立ち上がりつつある時代に女学校を卒業し、その後の自分の将来について考えている矢先でした。母の知り合いの娘さんが愛光保育園に勤めていましたが結婚が決まり、他県に行くことになり退職しなくてはならなくなり、誰かいないかと探していました。当時退職する時は後任を自分が紹介しなければならなかったらしく、そこで私に白羽の矢が向けられたのでした。私は自分の計画があり、保育園に勤める考えがなかったので即座にことわりました。しかしその人はやめられなければ結婚ができないと泣きつかれ自分の意思とは裏腹に面接を受けることになり、そのことがきっかけで愛光保育園を知り、イエス様と出合ったのでした。私がイエス様を求めたのではなく、イエス様が私をとらえて下さったとしか言いようがありません。日曜ごとの礼拝に出席し、み言葉を聞く中でわたしの心をとらえたのは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(第一テサロニケ信徒への手紙5章1618節)のみ言葉でした。愛光保育園に勤めて2年目、まだ何もわからなかった私の心に「まず心と身体」を神様に「ゆだね」てみようとふと思うようになりました。バプテスマを受けてそこから信仰生活の出発点としてもよいのではないかと思い牧師に相談し、「すべてを主にまかせます」と信仰を告白しバプテスマを受けたのでした。

私の信仰生活の始まりは神様にゆだねることから始まりました。その時私が決心したことは聖日礼拝の厳守という大きな目標をたてたのでした。結婚のときもクリスチャンであることをはっきり伝えました。結婚し、家庭を持ち現在のような核家族ではなく、主人の両親兄弟と一緒の大家族であり日曜日の礼拝出席は容易なことではありませんでした。私はこの容易でないことを主人の了解を得て始めることにしました。日曜日の礼拝に出席するために日曜日の午前中の家事は家族が寝ている夜中に、今考えると若かったから出来たこと「可子さん夜中にカタンカタン音を立てられたら寝られしませんえ」と義母に叱られたこともあります。旧約聖書出エジプト記に「イスラエルの人々が神の示しによってエジプトを脱出し神の約束の地カナンに向かって旅をし多くの苦労をし、その約束の地に向かうため神のきびしさが必要であったように、わたしにも信仰生活を全うする為にはきびしい態度が必要であると思いました。気の向いたとき時に教会へ行ったり、気分のよい時に聖書を読んだりする信仰生活では到底この世の誘惑や自分の弱さに打ち勝つことは出来ないと思い、その最も具体的な生活は聖日礼拝を守る神の言葉を開くことだと思いました。家族の病気、家庭と仕事の両立、子育て、子どもは丈夫に育ちましたが、義母は胆石の持病があり入退院を繰り返し家と保育園と病院という生活がたびたびありました。心の迷い、重荷にねをあげることがしばしばありました。「この重荷をどこに」困ったことが起った時わたしはその重荷をどこにもっていったらよいのかなやみました。わたしはその「なやみ」を他人に持っていって失望し、自分で背負って苦しみました。

マタイ11章28節で、神は「重荷を背おっているものは私のところに。やすませてあげよう」と云われた。しかし、思うように事ははこばず、投げ出そうと思ったことがたびたびあったことも事実です。しかし、神はその時に「あなたに対する恵みは十分である」と云われる。そして力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだと云われる。何回神様に愚痴をこぼして祈っても神はそのたびにあなたに対する恵みは十分だと同じ言葉が示される。第二コリント12章9節で「だからキリストの力が私の内に宿るようにむしろ大いに喜んで自分の弱さをほこりましょう」と、私には健康という恵みのあることにもその時気付かされ、恵みを探してみると本当にたくさんあることに気づき、すべてのことには時があることもわかりました。コヘレト3章にすべて定められた時がある。神はすべての時宜にかなうよう造り、永遠を思う心をあたえられる、と記されています。

その通りです。五十数年の時が流れました。両親や主人は天にめされ、子育ても終わり、今一人の生活を感謝をもって過ごしています。

私は自分のしている事に喜びを感じほこりを持つことができるということにまさった幸福はないと長い長い時をかけて今知ることが出来ました。投げ出さなくて本当によかったとも思っています。今、私は主にあって生きる喜びを味わっています。永い時をだまって見ていてくれた今はなき主人にも感謝しています。

祈り、感謝、喜びがたましいの力となって恵みを頂いています。今は恵みの時です。この恵みがいつまで続くか神のみ心は私にはわかりません。深いご計画のあることを信じ、すべてをゆだねて天のみ国に帰る日まで信仰生活を続けたいと願っています。

「若い日につくり主をおぼえよ」のみ言葉がありますが、まさに私にはぴったりの言葉あったのです。主を通して心豊かな人生を見出すことができました。ローマ1017節に「実に信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」また第二コリント62節に「恵みの時にわたしはあなたの願いを聞き入れた救いの日にわたしはあなたを助けた」と示されています。

私は今、日曜日の礼拝説教を一週間の歩みの大切な心の糧とて守り「天に宝をつむ者」になりたいと願っています。