「一粒の麦は地に落ちて死ぬ」

                   ヨハネ12:2036

                            林 宣雄牧師

 

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ1224節)

 冠婚葬祭のなかで、葬は悲しい。人を失うことは悲しい。自分にも死が確実にやってくる。それによって生は完結する。他者の死に向き合う。本来、葬は祭と連動していた。

 京都府の北東部、由良川の源流に位置し福井県と滋賀県に接する4,185ha(京都御所は65ha)の広大な京都大学大学院農学研究科の芦生演習林がある。演習林には多種多様な動植物類が生息している。年2回程度、ガイドの案内で入山する。常緑広葉樹のウラジロガシが多く、海抜の高いところではブナやミズナラが見られる。

 樹々は実りの季節を迎え、鹿の声がこだまする森は深緑から錦繍へと装いを変える。

 音を立てないように静かに山に入っていくと老大木が枯死している姿を見かける。若木が育つために自らの命を終えるのだという。

 老大木が枯死し、倒木した空間ができるとそこに、太陽の光がさしこんできて小さな芽がのびてくる。森という自然をとして真理を永遠なるものを見ているのかもしれない。

「人の子が栄光を受ける時が来た」と宣言されて、それを受けて「一粒の麦が地に落ちて死ぬ」という形で「多くの実を結ぶ」のである。「一粒の麦が死ぬ」ことを詳しく27節から33節で語られる。「わたしはまさにこの時のために来たのだ」(27)「イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして」(33)十字架を示された。

 私たちもイエスに従、同じ道を歩む。「光」であるキリストと同じように一度、受難の死の陰の谷を通らなければ、栄光に入れない。地上で生きる私たちは「一粒の麦」として信仰において十字架の死を受け止める。

 そこから「多くの実」を結ぶ。25節から26節のみ言葉は、自分の命がどこにあるかがわかる。