「自然と歴史」−その3−

 

林 宣雄牧師

 

 自然の法則性

 日本の自然が美しいのに、日本の歴史はそんなに美しいものではない。むしろ、(しゅう)(あく)(やみ)の面をひきずっている。富士山は風景としては美しい姿をしているが、山に登るとこんなに汚い山はない、と実感させられる。それは登山する人間がゴミをまきちらし汚物をたれ流すからである。世界遺産に登録する条件すらないのである。人間は歴史の根拠と目標、中心と意味を問うために自然の神秘、調和と統一を作り出している法則性の探求を続けてきた。プルーノーは空間の無限の中に、コペルニクスは大宇宙の観察と探求、ダ・ヴィンチは数学的方法を規則正しい自然をとく(かぎ)だと見なし、ペトラルカは人間の偉大さを映し出す鏡として人間を高く評価した。自然をよく観察し、自然の法則を探求して発見して自然を征服することが歴史の意味だと確信した。ルネッサンスを経て啓蒙期の思想家たち(ルソー、レッシング、カント)やローマン主義に属する人々の歴史観(ヘルダー、ゲーテ、ミラー、ニーチェ)はその確信をもった。確かに、自然の法則性は数学や力学をもって究めうる空間、自然諸力の力関係の計量と測定によって発見される。しかし、歴史の法則性は自然法則とは異質の、別な基準をもって測られる法則なのである。歴史とは空間と時間の限界の内部で繰りひろげられる営みの総計をいう。歴史は終末をもつ時間なのである。

〔2007年1月14日〕